勝沼ブドウ園

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リニアモーターカー
実験線見学所


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富士急ハイランド

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昇仙峡

車で90分
大月カントリークラブ

車で20分
笹一酒造

車で30分
日本三奇橋のひとつに数えられている橋です。崖の両岸から角材を突き出しその上に橋桁がのっている構造で610年頃築かれたと言われていますが、現在のものは1984年に再架されたもので、高さ31m、幅3.3m、長さ30.9m。伝説によると、百済の造園博士・志羅呼が、白猿の群れが蔦や蔓を用いて河を渡るのを見てヒントを得、架設したと言われています。猿橋の名はここからつけられたものです。
岩殿山は9世紀の末、天台宗の岩殿山円通寺として開創されたと伝えられる。
10世紀のはじめには三重塔、観音堂、僧房その他の建物がならび岩殿は門前町を形成した。
13世紀に入ると、円通寺は天台系聖護院末の修験道のセンターとして栄え、その支配は郡内一円はもちろんのこと甲斐国中の山梨、八代の東部一帯、駿河国は富士郡付近まで及んだ。
16世紀に至り戦国大名領国制が成立する中で、武田、小山田両氏の支配を受け岩殿山は、岩殿城として、武蔵、相模に備える戦略上の拠点とされた。そして、1582年(天正10年)武田、小山田の両氏が滅亡すると徳川氏により利用されたが、同氏の支配体制の確立された17世紀のはじめには廃城となった。
その後円通寺は、その塔頭である常楽、大坊の両院が法灯を伝えていたが、明治の初め神仏分離政策によりそのあとを断たれた。
現在東麓には、三重塔跡、常楽院ならびに大坊跡その他が、また山頂付近には空掘、本城、亀ヶ池その他の遺構が残され、これらは日本修験道史上、また日本城郭史上貴重な資料とされている。
1972年(昭和47年)10月、山梨県は岩殿山を「歴史景観保全区」として指定した。
平成7年には、山梨県の文化財に指定された。
旧500円札の富士の撮影地である。山頂には、昭和17年に撮影されたことなどを記した表示板が立っている。紙幣は昭和26年に発行され、現在は硬貨に変わってしまったが、ここからの富士の姿は少しも変わっていない。